さまよう雨男

出掛けると道に迷うか雨に降られます。 そんな私の散策の記録。

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記念艦 三笠            神奈川県横須賀市

前回のロシア人墓地から日露戦争関係ということで、三笠を見に横須賀へ。
P5144807.jpg
日露戦争時の連合艦隊旗艦である三笠は、
横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されています。
日露戦争のクライマックスである日本海海戦において、
連合艦隊司令長官東郷平八郎と共に日本を完全勝利に導いたこの艦は、
明治35年英国ビッカーズ造船所で竣工、当時世界弟一級の新鋭艦であったという。
P5144793.jpg
艦尾部。
明治38年5月27日午後2時5分。この三笠を先頭に連合艦隊はバルチック艦隊の前で
敵前大回頭、いわゆる「東郷ターン」を行い、集中砲火をうけた三笠は30発以上被弾しますが、
ターンを終え反撃を開始し、バルチック艦隊を完膚なきまでに叩きのめします。
P5144765.jpg
30センチ主砲とマストのZ旗。
有名なZ旗は「皇国のノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」という信号なわけですが、
日本海海戦の大勝によりその後、海戦ではないのに
ピンチの時にはZ旗みたいな感じで慣用されたようです。
まあ縁起担ぎということです。
P5144759.jpg
主砲から前甲板を。
大日本帝国海軍から海上自衛隊にいたるまで、甲板のゴミは
連合艦隊司令長官でも一兵卒でも気が付いた人が拾うのが伝統だそうです、
だからこそ常に甲板は美しく保てるのだと。
しかし会社でつまらん上司に「おい君、そこにゴミが落ちてるぞ、拾っとけ」と言われても、
気付いたんならお前が拾えとは口が裂けても言えませんが。

三笠その2へつづく

ロシア人墓地へ
戦艦「陸奥」沈没位置へ
旧呉海軍工廠へ

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  1. 2011/08/02(火) 21:31:00|
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記念艦 三笠 その2         神奈川県横須賀市

では三笠の艦内へ。
P5144734.jpg
無線電信室。
当時最新鋭の三六式無線機を搭載。これはレプリカです。
明治38年5月27日、信濃丸からの「敵艦隊見ユ」の第一報を受信。
そしてかの有名な
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
という連合艦隊出撃報告はこの部屋から発信されました。
P5144783.jpg
2番砲室 15cm砲。
人形繋がりと言う事で。
バルチック艦隊を迎え撃つまで連合艦隊は砲撃訓練を重ねます、
それは平時1年分の訓練用弾薬を10日で使い切る激しさだったという。
まさに東郷平八郎曰く「百発百中の一砲は、よく百発一中の百砲に対抗しうる」
P5144750.jpg
4番15cm砲の砲室。
このハンモックで砲員は寝るわけです、
さすが海の漢達、不眠症気味の私にはそれだけでもう無理です。
P5144742.jpg
最後に最上艦橋。
東郷司令長官はここで一文字吉房の名刀の柄を左手で握り、
右手でツアイスの双眼鏡を持って指揮をとりました。
幕僚たちが司令塔内で指揮をとるよう何回も勧めたが、
「私はもう老齢であり死んでも惜しくない、君たちこそ若くて今後も国の為に尽くさねば
ならぬのだから司令塔に入ったらよかろう」と言って承知しなかったという。

しかし、んじゃ私はって、長官残して司令塔に入れるわけがないだろう。

さてこの何十発もの砲撃を受けても決して沈まなかったこの艦が、
佐世保であっさり沈没します。原因はいろいろ説があるようですが、
水兵が戦勝気分で盛り上がって、火薬庫で酒盛りしてたらローソクが倒れて
火薬に引火して爆発したとかいう説もありまして、
なかなか勝って兜の緒を締めよとはいかないようです。

参考は
吉村昭「陸奥爆沈」
歴史街道平成19年4月号
東郷平八郎小伝        より

司令長官のふるさとへつづく
東郷平八郎誕生地へ

三笠その1へ
ロシア人墓地へ
戦艦「陸奥」沈没位置へ

  1. 2011/08/03(水) 21:31:46|
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戦艦「陸奥」艦首他  陸奥記念公園  山口県大島郡周防大島町

陸奥記念館の野外展示を見ていきます。陸奥についてはこちらへ。
P4303943.jpg
艦首。最先端部分を切断したもの、ここに菊のご紋章があった。
P5144715.jpg
菊のご紋章はこんな感じ、これは横須賀の記念艦「三笠」に展示してある三笠のご紋章。
P4303893.jpg
副砲の50口径三年式14センチ砲。18門搭載されていた。
P4303933.jpg
もう1基の副砲を後ろから。
P4303934.jpg
推進機、すなわちスクリュー。これが陸奥には4基搭載。
でかいです、これ1基で11トン、巻き込まれたらと思うとゾッとする。
P4303927.jpg
記念館の前にある艦首錨。

近くに展示してある
PS-1へつづく

陸奥記念公園へ
大和ミュージアムの陸奥関係へ
戦艦「陸奥」沈没位置へ
戦艦三笠へ

  1. 2011/09/10(土) 20:33:46|
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戦艦「陸奥」主砲他    呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム 広島県呉市

広島県呉市の有名な観光スポットである大和ミュージアムの野外展示にも、
サルベージされた戦艦「陸奥」の主砲などが展示されています。
P4304004.jpg
「陸奥」41センチ主砲身。
「陸奥」に搭載された41センチ砲は呉海軍工廠で開発、
大正7年に量産初号砲を完成して以来74門を製造。
大正9年から北海道室蘭において日本製鋼所で生産され、この展示されている主砲は、
大正10年に日本製鋼所が製造した2号砲で、昭和11年に陸奥に搭載される。 (案内板から)
P4304001.jpg
スクリュー。陸奥記念館より綺麗。
P4304086.jpg
主錨。

大和ミュージアムの零戦へつづく

陸奥記念公園へ
戦艦「陸奥」沈没位置へ
三笠へ

  1. 2011/09/13(火) 21:46:17|
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特殊潜航艇「甲標的」     海上自衛隊第1術科学校   広島県江田島市

「筒、今日も還らず」
P5014173.jpg
特殊潜航艇は別名を「特潜艇」もしくは「筒」とも呼ばれ、
ひっそりと敵艦に近づいて、搭載された2個の魚雷を命中させるという
コンセプトで開発された潜水艇である。
ワシントン軍縮会議の後、苦肉の策として昭和7年に海軍の艦政本部で計画され、
昭和16年1月、訓練を開始する。
P5014182.jpg
特殊潜航艇はハワイ真珠湾作戦に別働隊として参加、昭和16年12月8日未明潜水艦から5隻が発進、
戦果は無く、帰還艇なしという結果に終わり、捕虜となった1人を除き、9名が戦死。
もとより山本五十六司令長官は、ハワイ攻撃は航空機による雷撃作戦であり、
しかも特殊潜航艇は艇員の収容が見込めないため反対だったという。
(「奇襲 薩摩パールハーバーの男たち」より)

この特殊潜航艇はそのときの5隻の特殊潜航艇のうち1隻であり、
昭和35年6月13日、真珠湾港外約1マイルの地点で、米海軍により発見され引揚げられる。
昭和36年7月10日、約20年振りに横須賀に持ち帰られ、同7月28日江田島に到着。
艇体頭部は、当時切断されていたが昭和37年2月、株式会社呉造船所により新製され復元される。
P5014162.jpg
山本五十六司令長官の反対に対して、部隊内で収容方法を提案し採用されるわけで、
特殊潜航艇は「特攻兵器」は無いが、もとより乗組員達は生還など期待してなく、
ほぼ「特攻兵器」であり、のちの人間魚雷「回天」などに繋がっていくわけである。

隣に展示してある「海龍」につづく

江田島海軍兵学校へ
真珠湾奇襲の訓練が行われた鹿児島へ
一式陸攻へ
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  1. 2011/10/07(金) 23:11:35|
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特殊潜航艇「海龍」試作3号艇  海上自衛隊第1術科学校  広島県江田島市

P5014180.jpg
海龍は昭和18年、横須賀海軍浅野卯一郎中佐の着想により、昭和20年4月の量産発令と共に急造された、
本土防衛の為の特攻兵器であり、終戦まで230艇が建造されたが、実戦で使用されることは無かった。
P5014177.jpg
この「海龍」試作3号艇は、搭乗員の教育用に内部が見えるようになっているとのこと。
P5014178.jpg
「海龍」の量産型は大和ミュージアムに展示されています。

「海龍」後期量産型へつづく

特殊潜航艇「甲標的」へ
旧海軍兵学校へ
潜水艦「あきしお」へ
  1. 2011/10/08(土) 20:55:02|
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特殊潜航艇「海龍」後期量産型     呉市海事歴史科学館・大和ミュージアム 広島県呉市

P4304023.jpg
前回の江田島の「海龍」試作機から大和ミュージアムの量産型へ。
量産型は先っちょが丸くなっています。
P4304025.jpg
以下案内版から。
海龍「かいりゅう」は世界初の有翼潜水艇です。
水中を飛行機のように自由に潜航・浮上することをめざして開発されたもので、
操縦装置も飛行機と同じものを使用していました。
呉海軍工廠などでは潜航実験や研究・開発が行われ、
横須賀海軍工廠と海軍工作学校を中心に建造されました。
後期量産型では艇首に600キログラムの炸薬を装備し、
両脇に抱えた魚雷発射後、目標の艦艇に突入する「水中特攻兵器」となっていました。
当館展示の「海龍」は、昭和20年、静岡県網代湾で艇尾部に
アメリカ海軍航空機のロケット弾の直撃をうけて沈没し、昭和53年年5月27日に引揚げられたものです。

隣に展示してある
回天十型へつづく

江田島の「海龍」試作艇へ
特殊潜航艇「甲標的」へ
大和ミュージアムの零戦62型へ
零戦52型へ
  1. 2011/10/09(日) 22:29:45|
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「回天」十型 試作型   呉市海事歴史科学館・大和ミュージアム 広島県呉市

P4304020.jpg
大和ミュージアムに展示してある「回天」十型です、
「回天」は搭乗員が魚雷を操縦し、敵艦に体当たりすることを目的とした特攻兵器。
特攻といえば、空からの「神風特攻隊」と、
海からの、この人間魚雷「回天」がなにか代名詞みたいな感じでしょうか。

「回天」は実戦投入されたのは、九三式酸素魚雷を利用して作製された一型であり、
本土決戦の近距離用として、九二式魚雷を利用したこの「回天」十型 試作型は、
開発中に終戦を迎え実戦には使用されませんでした。
P4304021.jpg

回天の島へつづく

鹿屋航空基地史料館の零戦52型へ
江田島の「海龍」試作艇へ
特殊潜航艇「甲標的」へ
  1. 2011/10/10(月) 20:41:26|
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「回天」一型   回天記念館  山口県周南市

P4293779.jpg
徳山港からフェリーで約40分、馬島港で釣り人達と下船すると、大きな看板が見える。
「ようこそ回天の島 大津島へ」そうここが人間魚雷「回天」の訓練基地として使用され、
幾多の若者たちが出撃した大津島である。なにが「ようこそ」だかわからんが。
「天を回し戦局を逆転する」との願いを込めて、「回天」と名付けられたこの兵器による、
回天特攻作戦で、89人の搭乗員が戦死、15人が訓練中に殉職、2人が終戦時に自決した。
P4293781.jpg
回天は九三式酸素魚雷を改造、搭乗員が操縦し敵艦に体当たりするという特攻兵器であり、
甲標的搭乗員であった黒木博司大尉と仁科関夫中尉らが考案、軍令部首脳からの反対もあったが、
兵器として正式採用され、昭和19年9月5日、全国から志願して集まった搭乗員達による訓練が
ここ大津島の回天基地で始まった。

しかし訓練2日目の9月6日、提案者の黒木大尉は樋口大尉と回天に搭乗し、
訓練中に遭難、行方不明になる。
翌7日に大津島から約4000メートル離れた水深15メートルの海底で艦を発見、
引き揚げられた艦の中にあったのは、2人の死体と、酸素が少なくなり意識がもうろうとするなか、
死の直前まで書かれた、2千字にもよる事故の報告書と今後の回天の改善点であった。
「0四00死ヲ決ス。心身爽快ナリ」
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この回天記念館に展示してある回天はレプリカです。
回天記念館には隊員の方々の遺書や遺品が展示されています。
馬島港から徒歩10分くらい。
P4293791.jpg
映画「出口のない海」で使用された回天のセットが展示されています。

本文は、宮本雅史「回天の群像」より。
特攻については、神坂 次郎「今日われ生きてあり」と一緒にどうぞ。

大津島回天基地の遺構へつづく

「回天」十型 試作型へ
特殊潜航艇「甲標的」へ
靖国神社遊就館の零戦その1へ
一式陸攻へ
  1. 2011/10/11(火) 23:31:31|
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南極観測船「宗谷」  船の科学館    東京都品川区

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船の科学館に展示されている初代南極観測船「宗谷」はかつて軍事にも使用されました。
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通信室。
もともとは昭和11年に川南工業株式会社香焼島造船所が、ソビエト連邦から耐氷型貨物船の発注を受け起工。
昭和13年にソ連船「ボロチャエベツ」として進水するが、日中戦争が泥沼化していく情勢のなか、
ソ連には引渡しされず、民間船会社の貨物船「地領丸」として使用される。
昭和14年この船の耐氷能力に目を付けた日本海軍が買い取り、特務艦「宗谷」と改名し再デビュー。
昭和16年に勃発した大東亜戦争では、輸送艦として前線基地へ食料や物資を運ぶ任務を行なった。
輸送船が次々に撃沈する中「宗谷」は生き残り、終戦を迎えた後は帰還者を戦地や大陸から
日本へ運ぶ引き揚げ船として使用されます。まさに日本の箱舟だったわけです。
PA170635.jpg
その後、海上保安庁の灯台補給船として全国の灯台に物資を運ぶという仕事を行なっていた、
そして昭和31年、日本は国際地球観測年に伴い南極観測に参加することになり、
南極観測船はやっぱり「宗谷」が良いんじゃないかということで、
大規模な改造が行なわれ、この年老いた老巧艦が蘇り、
昭和31年11月、南極に向けて出航する。
PA170645.jpg
「宗谷」は船の科学館に展示保存されています、
現在、船の科学館は経営難のためか本館は休止してますが「宗谷」は見学できるみたいです。
もともと船の科学館は笹川良一の銅像などあり若干気持ち悪い感じでしたが、
「宗谷」保存にも資金調達が大変みたいなのでがんばって頂きたいです。

広島へ
原爆ドームへつづく

戦艦三笠へ
大津島回天基地跡へ
  1. 2011/11/26(土) 15:28:37|
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